平 氏 の 血 を 引く 大名

Add: emacac50 - Date: 2020-12-10 21:55:55 - Views: 5721 - Clicks: 7739

一般的に平家といえば、平清盛やその子宗盛らを筆頭に平安時代末期に大いに栄えたものの、最後は文治元(1185)年の壇ノ浦の戦いとその戦後処理によって、滅亡したとされます。 しかし「平家」というのは、平姓を賜った「平氏」の中のごくごく一部の人たちに過ぎないわけです。 例えば、平家を倒してできた鎌倉幕府を牛耳っていた北条氏は平氏ですし、その他鎌倉幕府の有力御家人はほとんどが平氏の子孫たちです。 例えば、このサイトには、承久の乱後の全国の守護大名の配置図が載っています。 鎌倉時代 九州・四国の鎌倉幕府守護大名と豪族(武士団)、有力国人衆 これを見ると、北条氏以外にも千葉氏、三浦氏、という平氏の一族がいます。(ただし、北条氏にほとんどつぶされてしまいます。) 鎌倉幕府は後になるほど得宗家支配が強まり、全国のほとんどを北条氏が支配することになるわけです。 しかし、圧倒的な権勢を誇った北条氏は、彼らが寄生していた鎌倉幕府ごと、源氏の足利尊氏や新田義貞の力によって滅ぼされてしまいます。. See full list on dic. まずは圧倒的な存在感がある「源平」について。「源平の合戦」「平家物語」「源氏物語」といった源平に関する史実や物語はあまりにもドラマティックで、内容はともかくタイトルを知らない日本人はいないでしょう。 ここでちょっとした疑問を抱いている方も多いと思います。なぜ源は「氏」で平は「家」なのでしょうか?

源氏と平氏は、臣籍降下で臣下になった元皇族の子孫たち。 そのうち清和天皇の血を継ぐ【清和源氏】から、源頼朝が輩出されたり、さらには室町幕府の足利氏、戦国武将の武田氏や佐竹氏などが出てきた――と以前の記事で記させていただきました。. 平氏(たいらうじ、へいし)は、日本の氏族のひとつ。 姓(カバネ)は朝臣。 日本において皇族が臣下に下る(臣籍降下)際に名乗る氏の一つで、有名な桓武平氏を含め4つの流派がある。. 平 氏 の 血 を 引く 大名 「平氏」の「平」の由来についても諸説あるようですが、有力なのは平氏4流派の中でもっとも古い「桓武平氏」の祖である桓武天皇が建てた「平安京」に因んだとするものです。その起源は桓武天皇の皇子葛原(かずらはら)・万多(まんだ)・仲野(なかの)・賀陽(かや)の4親王の子孫に平姓が与えられて臣籍降下したのに始まることから平安時代初期、700年代終盤から800年代初頭の頃とされています。 4つの流派は「桓武」「仁明」「文徳」「光孝」ですが、葛原親王の子高見王の子孫である「桓武平氏」がもっとも栄えました。高見王の子高望王の子孫は東国で武士として勢力を張りましたが、平将門による天慶の乱以降衰えてしまいます。それでも高望王の子、良文・良茂の子孫は広く関東一円で「坂東八平氏」と称される武士団を組織して鎌倉幕府の創立に貢献しました。 一方、将門に討たれた国香の孫である維衡は伊勢に勢力を広げて「伊勢平氏」と称され平氏の中心となります。この流れから正盛・忠盛を経て清盛が出て平氏の枠を超えて平家を組織し、保元・平治の乱で源氏を追放すると平氏全盛の時代を迎えることになりました。しかし1185年に「壇ノ浦の戦」で源氏によって滅ぼされてしまいます。 その後、国香の流れをくむ後北条氏は東国に土着し、鎌倉幕府の有力な御家人となって源家将軍が断絶した後には幕府の実権を握るまでに隆盛しましたが、豊臣秀吉の攻撃で滅ぼされてしまいます。結局、桓武平氏の流れでは大名・豪族として残れませんでした。. 岩津松平家の発祥 『三河物語』によれば、松平氏第二代とされる泰親は松平郷を出て岩津の城を奪い居城としたという 。 初代親氏の時に討伐して屈服させたという「中山十七名(中山七名とも)」の一つ、加茂郡林添(豊田市林添)の藪田氏の残党が泰親領近隣に出没して諸人を悩ませていた. 戦国大名・武将の子孫 あの武将の末裔が意外な活躍を.

See full list on dic. いかに平氏一門、源氏一門と言っても、共通の先祖は五代も六代も遠ざかっている事もあり、同じ平氏でもあった事もない赤の他人でした。それに、武士にとっては、自分が領有する土地を守る事が最優先であり、その意味で血縁よりも自身が住んでいる土地の地縁を重視する事が多かったのです。 具体的に言えば、自分の領地の周辺で源氏が強いなら源氏に、平氏が強いなら平氏に付くというのが、武士達の現実的な選択でした。最初に紹介した坂東八平氏が頼朝についたのも、河内源氏(かわちげんじ)が関東で大きな力を持っていたからなのです。. 元服して元康)は今川氏の人質として駿府に送られ、松平氏の三河支配は実質的に中断を余儀なくされたが、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで今川義元が敗死すると、大樹寺住職の説諭を得て生誕地の岡崎城に戻り、やがて今川氏から独立し、名を松平.

平安時代末期に起こった源平の戦い。治承寿永の乱とも呼びますが、すでに力をなくした天皇や貴族の手から政治の実権が離れ、力を持った武士同士による政権争いだったという面が大きいのです。戦いに勝った源氏はこの後700年近い武家政治の先駆者となり、新しい武士の世の中を作り出す. 初期の源氏は、朝廷や藤原氏に仕え、官職に就いていました。 初代清和源氏・源経基から数えて3代目と4代目になる 源頼信 ・ 頼義 父子は武勇に優れていました。 その活躍を見込まれて、頼義は平氏嫡流の 平直方 たいらのなおかた の婿となりました。. 成田山高野講 - この辺りは、平将門の血を引く武蔵千葉氏が治めた地。居城中曽根城跡や千葉氏縁の寺社が点在する地域の真ん中に、将門調伏に功を成した成田山があるのは興味深い。.

ガラシャ自筆の手紙は、国立国会図書館(松本文書)に10通 平 氏 の 血 を 引く 大名 、永青文庫に4通、東京国立博物館に1通 (細川忠興宛)、熊本. 藤原氏の流れと称する大名家→西のほうの賑やかな→尼子家(出雲/07/30 12:30:39) 西の方にある何とかって湖沼もある --- にゃけ幸 (/10/09 06:06:11). 『 富とび家の血を引く、尼子あまこ氏は安来の城を、富田とだ家に因み、月山富田がっさんとだ城と名づけた 』 出雲と蘇我王国p114出雲王国の、最期のスクナヒコ. 親藩は簡単に言うと将軍と血が繋がっている人々のことです 譜代大名は関ヶ原の戦いよりも前から徳川氏に仕えていた大名.

千葉氏・三浦氏は桓武平氏の流れを汲んでいるとし、小山氏は平将門を討った藤原秀郷の子孫を名乗っていました。 しかし、建暦三年(1213年)の和田合戦で、三浦氏は北条氏に滅ぼされ、縁戚関係にあった千葉氏もその余波で勢力を弱めることになります。. See more results. 平安時代に登場する平氏の人物もしくはその一族。「平」は本来は名字と言うより氏であり(名字と氏の違いについては人名の記事を参照)、氏が平の一族をまとめて「平氏」と呼ぶ。 平氏の多くは関東を中心にした各地において領地をもつ武士となった。彼らは領地を名字とし、後の執権一族である北条氏や、千葉氏、三浦氏、熊谷氏等がその代表例である。これに対して氏以外の名字を持たず下級官僚として朝廷に仕えたのが、平清盛の祖先、伊勢平氏の一族である。朝廷は仕えている各々の氏について藤原氏は「藤家」菅原氏は「菅家」等と呼んだ。同様に名字を持たず朝廷に仕えた平氏を「平家」と呼んでいる。これが一般化して、北条氏らの在地武士と区別された朝廷に仕えた伊勢平氏を平家と呼ぶのである。. 平家や源氏の血をひく家は今でもあるのでしょうか? 探せばけっこうあります。細川元首相は世が世ならお殿さまでした。江戸時代に熊本を統治した細川氏は足利家一門(清和源氏)の流れをくむ名門です。あと、秋田県の佐竹知事は、秋田藩主佐竹氏の分家筋で代々家老を務めていた家の出身だ. 応仁の乱で幕府がすっかり力を失い、全国的に群雄割拠の戦国時代に入りますが、この時代になると「源平交代説」というのが意識されるようになっていきます。 これまでの武士の歴史を見てみると 平清盛(平氏)⇒源頼朝(源氏)⇒北条氏(平氏)⇒足利氏(源氏)と、源平が交代で世の中を治めてきたのだから、次に天下を治めるのは平氏に違いない!という考え方です。 実際、戦国時代の勢力図を見直すと、一気に平氏が台頭してきています。 こちらのサイトさんからお借りした1560年時点での勢力図をみると・・・ 細かい図ですが、この当時平氏(自称含む)で勢力を持っているのは、葦名氏、長尾氏、後北条氏、江馬氏、織田氏(藤原氏説有り)、有馬氏(藤原氏説あり)。 この図は1560年時点の図になりますから、この後急速に勢力を拡大してくる織田氏も、自称平氏です。(実際は藤原氏では? 蘇我氏が大和王権の表舞台に登場してくるのは6世紀の初めで,それまで無名の人物であったと言ってよい。そのためか,蘇我氏は渡来人だとする説もある。事実,先祖に「高麗」の字が見える。 物部氏も有力な豪族の一人で,蘇我氏とは常に対立していた.

「源氏」という姓の由来は諸説ありますが「皇族に『源(みなもと)』を発する」というのが有力な説のようです。起源は平安時代初期、弘仁5(814)年に嵯峨天皇がその皇子・皇女8人に賜って臣下としたのに始まるとされています。 源氏の代表的な流派といえば「清和」「宇多」「村上」「花山」が有名です。上でも触れた通り源氏には21もの流派があったとされているほどその系譜は複雑で、その末裔まで辿ると全国各地に分散しているのかもしれません。 源氏の中でもっとも有名なのは、やはり平家を滅ぼし鎌倉幕府を開いた源頼朝ではないでしょうか。その頼朝は清和源氏の流れをくんでいます。清和天皇の皇子、貞純親王の子、源経基に始まる清和源氏の子孫は摂津・大和・河内・美濃・三河に栄えました。 頼朝は、現在の大阪南部を支配していた河内源氏の出です。ほかにも足利・新田・武田・佐竹といった後の世を賑わす諸氏も河内の流れをくんでいるとされているほど、河内源氏は源氏のスター集団だったと言って間違いないでしょう。詳細は不明ですが、明智光秀は源氏の末裔。武田信玄は甲斐源氏の流れをくんでいますが、徳川家康が源氏嫡流を主張しているのは疑問があるとする説もあります。. と言われていますが・・・) ともかく信長は源平交代説を意識した結果、平氏を名乗ったとされています。 こうして本能寺の変発生直前には(これも先ほどのサイトからお借りしました)には、四国の一部、近畿、北陸、東海、甲信までを織田信長が治め、越後に上杉(長尾)、関東に北条と、すっかり天下は平氏系大名に占められた!という状態になるわけです。 しかし、皆さんご存知のように1582年の本能寺の変以降、織田氏は求心力を失い、代わって台頭してきた秀吉によって北条氏は滅亡させられ、これにより平氏の流れを汲む武士たちが天下の表舞台に登場することは、なくなりました。 そう言う意味で、「平家」の滅亡は壇ノ浦の戦いだが、「平氏」の滅亡は本能寺の変、および小田原征伐によるものといえるでしょう。. その後室町幕府の時代になると、足利氏自体が頼朝と違って、既に強力な支族達(細川、斯波、吉良など)を有していたため、平氏の陰が薄くなります。 室町幕府成立直後の全国の守護配置図を見てみましょう。 (天下侍魂 さまより転載) これら守護64人を見てみると、源氏系37人(うち足利支族17人)、藤原氏系13人、平氏系6人、その他9人となっています。 応仁の乱時点ではこれに足利将軍家の一族(鎌倉公方)が加わりますし、細川家などの足利支族系の大名の台頭が強まるので、平氏流の武家の肩身はますます狭くなります。 しかし、平氏系(自称も含む)武士にとって雌伏の時代だった室町時代のあと、平氏系武士にとっての最後の輝きを誇った時代がやってきます。. 御旗・楯無も御照覧あれ 戦国大名として有名な武田信玄。この武田家では、当主が「御旗・楯無も御照覧あれ」と言うと、それまで反対意見などがあっても、この家宝の前で誓ったことは、全員が死を持っても守らなければならず、それ以上の議論は止めなければならなかったのです。. 千葉氏のはじまり 千葉氏の始祖、平良文. 豊臣秀吉の末裔は、現在どこにいるのか? タレントをやっているという噂もあるのですが・・・・。 秀吉の子といえば、織田信長の姪「茶々」が産んだ子ということか? 歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。 拙者は当サイトを運営している「元・落武者」と申す者・・・。 どうぞご.

「源平藤橘」の最後を飾る「橘氏」。始祖は6世紀後半の敏達天皇とされています。橘姓を最初に下賜されたのは、女帝・元明天皇の子、県犬養(あがたのいぬかい)三千代。文武天皇の乳母を務めた功により、708年に橘宿禰の氏姓を賜り橘三千代を名乗りました。三千代と敏達天皇の後裔である美努王の間に生まれた子、葛城王が臣籍降下した橘諸兄は、橘氏の中で最も有名な人物と言っていいでしょう。 諸兄以降の子孫も橘姓を名乗るようになりました。橘氏の絶頂期は、藤原不比等の息子たち「藤原四卿」の死没後に諸兄が躍進して一気に正一位・左大臣まで昇進したタイミングで735年頃のことです。その後しばらくは、橘氏から公卿を輩出することはなく衰退していましたが、世継ぎした諸兄の子、奈良麻呂の孫娘、嘉智子が嵯峨天皇の(檀林)皇后となると、橘氏は再び地位を上げることができました。 奈良麻呂の孫、常主が約70年ぶりに公卿となり、檀林皇后出生の皇子が仁明天皇に即位すると、嘉智子の兄、氏公が右大臣へと出世を果たします。嘉智子の影響力が及んだ9世紀前半のこの時期が橘氏にとって第二期黄金時代です。9世紀半ばから10世紀後半に掛けては7人の公卿を輩出し、安定した勢力を確保していました。 しかし、983年に亡くなった恒平を最後に橘氏公卿は絶えてしまい、その後は地方に土着するか、衰退の一途を辿り下級官人として細々と家系を継いでいくのに留まっています。. 石高わずか五千石の小藩・喜連川藩は、なぜ十万石の大名同様の扱いを受けたのか。 その裏には、名門足利氏の血を引くふたりの姫君の存在があった――。 小弓公方の家に生まれ、美しく武芸にも優れた嶋子は、秀吉の側室となり足利家再興を願う。. さて、「源平藤橘」の血統を引き継いでいる日本人はいったいどのくらいいるのでしょうか。 もっとも古い藤原氏とそれに次ぐ橘氏は起源から1300年以上、源平でも1200年が経っています。仮に一代を30年とすればそれぞれの起源にいたるまでは40代以上を数えることになるでしょう。単純計算で直系の先祖を20代遡ると104万人、30代遡れば1073万人に、40代遡れば先祖の数は1兆人を有に超えてしまいます。そう考えれば、誰しも自分の先祖には「源平藤橘」のいずれか、あるいはすべてがいて、自分はその血を引いているんだ、と思うに違いありません。 血筋の根拠としては名字に目を向けてみるのもいいでしょう。「『◯藤』という名字は藤原氏の末裔である」という話を耳にしたことがある方も多いと思います。すべてがそうとは限りませんが、重要なヒントとなりそうです。 平安時代の朝廷では藤原氏の一族が席巻していたため、要職ではない庶民に近い藤原氏の者は、拠点とする土地の名前や職業の一文字と「藤」を組み合わせた名字を作ったとされています。例えば伊勢に領地があれば「伊藤」、近江では「近藤」、遠江の「遠藤」、加賀の「加藤」、肥後・備後・越後・丹後・豊後・筑後などの「後藤」、佐渡・佐野などの「佐藤」、武蔵の「武藤」など数多く見受けられるでしょう。 また、「佐藤」は皇居を警備する武官「左衛門尉」の「左」から発祥していたり、伊勢神宮にいる皇女斎王に奉仕する斎宮寮の長官を務めたものが「斎藤」となったり、木工寮から「工藤」、修理少進の「進藤」など、職業に由来する「◯藤」も多かったようです。 源氏・平氏・橘氏では、藤原氏の藤のように目印となっている名字はありませんが、特定の苗字がそれぞれをルーツにしていることがわかっています。もちろん明治3年に庶民が名字を持つことを許された際に、名家やメジャーな名字を勝手に拝借するということも多かったので、その名字が必ずしも由緒ある血統を引き継いでいるわけではありません。あくまでも代表的な例ということでご紹介するので、参考にしていただきたいと思います。 「清和源氏」–新田・大島・山名・岩松・脇屋・足利・上野・吉良・今川・畠山・桃井・大崎・石橋・板倉・榊原・細川・佐竹・武田・板垣・小笠原・三好・平賀・加賀美・浅野・明智 「宇多源氏」–佐々木・京極・六角 「村上源氏」–久我・北畠・岩倉・千. See full list on hajimete-sangokushi. 江戸時代には完全に平氏の流れを汲む大名は駆逐されてしまい、わずかに宗氏、織田氏、相馬氏程度になってしまいました。 石高的にも、宗氏が10万石格、相馬氏が6万石、織田氏は最大で2万石と、惨憺たるものです。. !? 話題・タグ 話題ごとに戦国の武将や大名、名言をまとめて見る 出身国 出身別にみるとわかる戦国武将達の共通点 逸話 教科書には載ってなかった武将の意外な一面 肖像画・画像.

このモヤモヤも最初に解消させて話を進めたいと思います。 本姓である氏とは、皇族が臣籍、つまり天皇の家来・仕える者に下る「臣籍降下」にあたって下賜された姓でした。天皇や皇族は姓を持たなかったので臣下となる際に「姓」をつける必要があったのです。源姓を名乗った一族はたいへん多かったため、源家の総体として源氏と呼ばれていました。 一方平家とは、政権を打ち立てた平清盛とその一族、さらには仕えている者たちも含めた政権・軍事の一団のことをいいます。そのため、平家の中には清盛らに仕えていた藤原氏や源氏の武士もいたのです。平家とは平氏の中の一部でありながら、平氏以外の外部の者も多くいたというわけでした。. ア 桓武天皇の血を引く平将門は、下総国猿島郡に本拠を置いていた。 イ 平貞盛の子孫のうち、常陸国に土着した一族のなかからやがて平清盛が出た。 ウ 嵯峨天皇の血を引く源経基は、平将門の謀反を朝廷に密告した。. 前述の源平交代説を考えると、江戸時代が源氏(怪しいですが)の徳川氏なら、この次は平氏・・・となるはずですが、明治維新で活躍した人々を見ても 薩摩 西郷隆盛・・・菊地氏の一族西郷氏の出。大本は藤原氏。 大久保利通・・・不明だが藤原氏 黒田清隆・・・不明 小松清廉・・・禰寝氏(重盛流平氏?) 長州 木戸孝允・・・大江氏(毛利元就の七男天野元政の子孫) 伊藤博文・・・越智氏または藤原氏 井上馨・・・源氏 平 氏 の 血 を 引く 大名 山縣有朋・・・源氏? 土佐 板垣退助・・・源氏(清和源氏武田・板垣氏支流) 後藤象二郎・・・藤原氏 肥前 江藤新平・・・平氏 大隈重信・・・菅原氏 ほとんど平氏は居ませんし、平氏の血を継いでいそうな小松清廉、江藤新平とも、維新後すぐに死んでしまっています。. 平 平高望(たかもち) 桓武天皇の血を引く(曽孫? 戦国大名中のわずか二割しか近世大名として残らなかったことになる。さらに戦国大名より古い守護大名の系譜をひくものは、佐竹、小笠原、京極、島津、宗の五家にしかすぎないことである。 地域別にみると、九州と東北で五割を越えている。. 平 氏 の 血 を 引く 大名 源頼朝と源義朝(みなもとのよしとも)父子(ふし)が源義家の血を引く源氏の嫡流(ちゃくりゅう)という考え方も、実は鎌倉幕府が成立してから出来た結果論に過ぎません。河内源氏は、実際には複数の流れを持ち、単独の嫡流が存在しているわけではなく、源義家の後継者に正統性を限定しても源義仲(みなもとのよしなか)や源義朝、義賢の弟の源行家(みなもとのゆきいえ)も、先に紹介した新田義重もその地位を主張できるのです。 別に源氏は河内源氏だけではないわけで、たまたま源頼朝が同じ源氏のライバルを蹴散らして、鎌倉に幕府を開いたので、後世から嫡流だと認定されただけなのです。.

千葉氏は、桓武天皇の血を引く関東の名族です。 桓武天皇のひ孫高望王(たかもちおう、後に平高望)は上総介(かずさのすけ)となって関東に下向しました。. ③ 外様大名-関ヶ原以後に徳川氏に臣従した大名たち- 外様(または外様大名)は、表大名(おもてだいみょう)・上方衆(かみがたしゅう)・国衆(くにしゅう)などとも呼ばれました。関ヶ原の戦い以後に徳川氏に臣従した大名です。. 武田氏と織田氏、両方の血を引く 武田信勝 は、永禄10(1567)年に甲斐(かい/山梨県)の戦国大名・ 武田勝頼 の長男として誕生しました。 つまり、 武田信玄の孫 ということになります。. See full list on munemori-taiga-project. See full list on ka-ju. 続いては「源平藤橘」の中で最大・最古の一族「藤原氏」です。そのルーツは天神地祇であるアメノコヤネノミコトの後裔と伝えられており、まさに神話の世界から続く由緒ある家系です。起源は天智8(669)年に中臣連鎌足が大化改新に尽くした功績を讃えられ天智天皇から「藤原」の姓を賜わって藤原鎌足となったこととされています。 鎌足の子不比等(ふひと)が律令体制を推進し、娘の宮子を文武天皇夫人に、光明子を人臣として初めて皇后に立てて権力を振るいました。その後不比等の子である武智麻呂が南家、房前が北家、宇合が式家、麻呂が京家を開いて「藤原四家」を成立させますが、結局北家が有力となって隆盛していきます。 平安時代以降、摂政・関白・太政大臣を多く輩出し、藤原道長・頼通の頃に全盛期を迎えました。ちなみに、源頼朝に滅ぼされた奥州藤原氏も、忠臣蔵の主人公、江戸時代の赤穂藩家老・大石内蔵助も北家に発した藤太流藤原氏といわれています。 平安末期になると家内の抗争や不和で摂関家が分裂し近衛家・九条家を興し、鎌倉時代には二条・一条が別れ、新たに鷹司家が興って「五摂家」となりました。以後摂政・関白を立てて江戸時代末期に至ります。明治維新後は「五摂家」に次ぐ家格にあった上層公家の多くは華族に、五摂家は公爵に列せられました。. これについては、宝皇女と高向王、高向王と用明大王や厩戸皇子との関係を明記すると、『紀』が可能な限り伏せようとする、蘇我氏の血を引く大王家の人々と、大王家を操った蘇我氏との切り離せない関係を強調することになってしまうからだった、と.

平は源と並び皇族が臣下の籍に降りる(臣籍降下)際に名乗る氏の一つであり、つまり天皇家の血を引く人々であるため、その血統は尊ばれ、日本史において重きをなした(後世には箔付けのために勝手に平氏を名乗った一族も多いが)。 「平」氏を名乗るものには仁明天皇を祖とする仁明平氏、文徳天皇を祖とする文徳平氏、光孝天皇を祖とする光孝平氏があるが、特に有力であったのが桓武天皇の皇子をそれぞれ先祖とする桓武平氏である。その中でも高棟王の子孫は公家であり、堂上平氏と呼ばれた。平清盛の親族として権勢をふるった、平時子 平時忠 平滋子の姉弟が有名だが、その後も江戸時代に至るまで中級貴族の堂上家として代々続いている。先述のようにこの高棟王の子孫も朝廷に仕えて名字を持たない「平家」のはずだが、世間的には伊勢平氏嫡流が壇ノ浦の戦いので滅亡したことを平家滅亡と呼び、高棟王流はスルーされていたりする。 これに対し高望王の子孫は関東で武士となって坂東平氏と呼ばれ、平将門と将門を討った平貞盛(将門の従兄弟)が特に有名だが他にも北条氏や千葉氏などが含まれる。坂東平氏諸流の中でも高望王の曾孫・平維衡(貞盛の四男)は伊勢の国. 源氏も平氏もどの天皇の子孫が臣籍降下したかによって、さまざまな流派がありました。平氏は4流派、源氏においては21も流派があったと言われ、家系図も各流派ごとに作られており、天皇家との関係や女系にまでおよぶと複雑さを極めていたとされています。また、臣籍降下した元皇族の格や天皇との距離によって微妙な力関係が生まれ、宿怨となり戦にまで発展することがありました。 「源平の合戦」に至った両者の宿怨とは、このように臣籍に下りた氏族であるという同等の格による強いライバル関係に因るところが根底にあったとされています。しかし、臣籍降下した皇族は、平氏において天皇の孫以降の代が多かったことから、源氏の方が格上とする見方もありました。このことに因る優越感と劣等感のアンバランスさも、源平両氏の運命を左右したのではないかとされています。. 平家物語などを見ると、いかにも、源氏の棟梁(とうりょう)の源頼朝と平家の棟梁平清盛の全面対決に見える戦いですが、現実には、源頼朝に味方した平氏の武将は大勢いました。元々関東は桓武平氏の平良文(たいらのよしふみ)を祖として、下総(しもうさ)、上総(かずさ)、武蔵(むさし)、相模(さがみ)に根を張った坂東八平氏(ばんどうはちへいし)の力が強い地域でした。 例えば、千葉常胤(ちばつねたね)、三浦義明(みうらよしあき)、畠山重忠(はたけやましげただ)、江戸重長(えどしげなが)、梶原景時(かじわらかげとき)のような武将は皆、坂東八平氏です。教科書的には、北条時政(ほうじょうときまさ)のような平氏の武将しか描かれませんが、ところがどっこいなんですね。. 長々と書いてしまいましたが、ざっくり言えば ・壇ノ浦の戦いで滅んだのは平氏のごく一部だけ ・鎌倉、室町時代にも平氏は衰退しつつも生き残っていた ・戦国時代には織田氏、北条氏など平氏系大名が台頭した ・しかし本能寺の変と小田原征伐で、平氏系の有力大名はほぼ滅びた ということです。 我こそは!という平氏の血を継ぐ皆さん!いつか再び平氏の世を! (かくいう私自身は平氏の血は引いていませんがw).

禧嬪張氏 家族 平 氏 の 血 を 引く 大名 二人の息子を儲けたが、長男は子が無く、次男は夭逝したため彼女の血を引く子孫はいない。父:張炯(1623年-1669年 玉山府院君と追号)母:坡山府夫人 坡平尹氏(1626年-1698年 後妻であっ.

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